「普通」って何?発達障害の僕が、世間の“当たり前”に物申す!

自己理解

~誤解だらけの僕らを理解してほしい~

皆さん、こんにちは。今日も、世の中の「普通」という名の不思議な概念に、首を傾げている僕です。

今日のテーマは、僕が長年感じてきた、発達障害に対する世間の誤解について。ADHDとASDを併発している僕だからこそ、声を大にして言いたいことがあるんです。

まず、ADHDの僕から言わせてください。考える前に体が衝動的に動いてしまうこと、あります。それが、周りの人からは「すぐカッとなる」「わがまま」なんて風に見られがちなんですよね。いやいや、こっちだって好きで衝動的に動いているわけじゃないんですよ。ブレーキがちょっと、いや、かなり甘いだけなんです!頭では「あ、これはまずい」って思うんですけど、もう体の方が先に「うわー!」って動いちゃう。まるで、高性能エンジンなのに、ポンコツブレーキしかついてない旧車みたいなもんです。(ちなみに僕、温和ですからご安心ください)

そして、ASDの僕からも一言。相手の気持ちや場の空気を察するのが苦手なんです。これはもう、本当に申し訳ないと思っているんですが、どうにもこうにも、空気の色とか匂いとか、そういうのが、僕にはイマイチ理解できない。だから、「空気を読まない」って言われちゃうんですよね。こっちだって、なるべくなら場の雰囲気を壊したくないんですよ!でも、センサーがちょっと、いや、かなり鈍感なもので…。最新鋭レーダーを積んでるつもりなのに、なぜかいつもアナログ放送しか受信できない、みたいな感じです。

でね、僕はこの二つを併発しているもんだから、そりゃあもう、世間の「普通」という名のハードルに、しょっちゅう引っかかるわけです。目に見えない障害だからこそ、大多数の人が「みんながあたりまえにできること」を期待してくる。でも、僕らにはそれが、本当に難しいことが多いんです。そして、できないと、がっかりされる。

これって、ちょっと理不尽だと思いませんか?

もし、目の前に明らかに目が見えない人がいたら、「なんで見えないの?」「ちゃんと見ようとしないからだ!」なんて、絶対に言わないですよね?「見えない」ということが、目に見える形で理解できるから、誰もそんな酷いことは言わない。

でも、発達障害は、見た目には分からない。五体満足に見えるからこそ、「なんでできないの?」「何度も言ったじゃないの!」って、平気で言われてしまう。僕自身は、もう長年の経験で、ある程度慣れてきましたけどね。心の中で「ああ、また始まった…」って思いながら、適当に受け流すスキルは、かなり上達しました(笑)。

僕が参加しているボランティア組織で、第三者的に見ていると、「あの人、もしかしたら発達障害の傾向があるんじゃないかな?」って思う方がいるんです。その方は、いつも周りの人に怒られています。「何度同じこと言わせるの!」って、結構厳しい言葉で。

見ていると、本当に可哀想で…。その方も、一生懸命やろうとしているのは伝わってくるんです。でも、どうしても、周りの期待する「普通」のレベルに達しない。

そして、何度も何度も厳しく指導すれば、人は変わると思っている方も、また可哀想に見えてくるんです。言われている方も辛いでしょうけど、言っている方も、自分の思うように相手が変わらないことに、イライラしているんでしょうね。だいたい、そういう注意できる立場の人って、組織の中で、ある程度偉い立場の方だったりするんですよね。

普通に見えるからこそ、「普通」を期待されて、その期待を裏切ってしまう。そうすると、周りの信用を失墜させてしまう。これは、本当に辛いことです。

声を大にして言いたい。発達障害は、決してアホでもバカでもないんです!ただ、脳の機能の一部に、ちょっとした偏りがあるだけ。ある特定の分野が、人よりも極端に不得意なだけで、他の分野では、信じられないような才能を発揮することだってあるんです。

少し前までは、「アスペルガー」なんていう言葉が、人を馬鹿にするようなニュアンスで使われていたこともありましたよね。「あの人、ちょっとアスペルガーじゃない?」みたいな。まるで、人格に欠陥があるかのような言い方。

でも、違うんです。発達障害者は、ちょっと脳みそが不器用なだけなんです。右利きの人もいれば、左利きの人もいるように、脳の使い方が、ちょっと違うだけ。決して、劣っているわけではないんです。

そういえば、昔は左利きの子どもが、親の意向で右利きに矯正されることもよくあったそうです。
「左利きは行儀が悪い」「使いづらい」「縁起が良くない」などといった理由から、
日常生活に支障が出ないように、という親心もあったのでしょう。
今では多様性が尊重される時代ですが、かつては“右利きであること”が常識とされていた背景があったのです。

話が脱線しましたが、人が人に寄り添うこと。お互いの違いを理解し、尊重すること。それさえできれば、きっと発達障害に対する誤解は、少しずつ解けていくはずです。

「障害者」と聞くと、どうしても特別な保護が必要な弱い存在、というイメージを持つ人もいるかもしれません。もちろん、必要なサポートはあります。でも、過剰な保護は、かえってその人の可能性を狭めてしまうこともあります。

僕たちが本当に求めているのは、憐れみではなく、理解なんです。「なぜできないの?」と責める前に、「この人には、何か苦手なことがあるのかもしれない」と、少しだけ想像力を働かせてほしい。そして普通を押し付けないで欲しい。

脳の不器用さは、見た目には分かりにくい。だからこそ、もっと多くの人に、発達障害というものを知ってほしい。僕たちの感じている世界を、少しでも理解してほしい。

障害者を「護ってあげよう」という上からの目線ではなく、同じ人間として、お互いに寄り添い、支え合う。そんな温かい社会になることを、僕は心から願っています。

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